「あれ、あんたの犬か?」
幸いにして、シニア犬との挨拶は男には聞こえなかったらしい。
ここで私の犬と言い切れば、とりあえずはこの場を乗り切れそうだ。
「はい。私の犬です。ご近所の皆様にはご迷惑をおかけしまして申し訳ございませんでした」
「まあ、よかったじゃない。ねえ」
「あんなかわいいワンちゃんだもの、ご心配でしたでしょう」
「随分と長生きそうで、ワンちゃん幸せですよね」
慌てて取り繕う声達に辟易する。
幸せ?
どう見たってあのシニア犬は今、幸せとは真逆の環境にいる。
「それにしてもあんた、どうして犬を逃がしちまったんだ?」
「えっと……」
咄嗟、返答に窮する私の姿を見逃さず、男はニヤリと畳みかけてきた。
「飼い主には犬を適切に飼育する義務があるんだぞ。逃がすのはもちろんのこと、人様に咬みつきゃ犬を処分されたって文句は言えない。わかってるのか?」
なり損ねヒーロー魂が再燃したらしい。
ここぞとばかり、私に迫る。
「まあ、今回は誰も怪我しなくて良かったけどな。近所には子どもだっているんだ。二度とこんなことがないように気をつけてもらわなきゃなあ」
「はい……気をつけます」
「あの犬の為にもだぞ」
もっともだ。
だけど、どの口が言う!?
そのゴルフクラブで何をする気だったんだ!?
自分こそあのシニア犬の為なんてこれっぽっちも気にかけてないじゃないか!
言い返したい気持ちをぐっと堪えながら私は頭を下げた。
「本当に申し訳ありませんでした」
「わかりゃあ、あの犬をさっさと連れて帰ってくれ。おっかなくて仕方ねえよなあ、みんな?」
合わせたようにうなずく住人達にもう一度頭を下げて、私はシニア犬に近づいた。
「ねえキミ。はじめましてでなんだけど……一先ずは私を信用してついてきてくれるとありがたいんだけどな。そうじゃないとあの人達に怪しまれて、キミを助けてあげられなくなっちゃうんだ。さあ私の家はこっちだよ。おいで」
けれどもさっきと違って私の想いが通じない。
シニア犬は私が指差した方とは別の方へと歩みを進める。
どうか私が飼い主ではないとバレませんように!
背中に集まる居住者達の視線にヒヤヒヤしながら、私はシニア犬の後をぎこちなく追った。
それにしても笑ってしまいそうになる。
さも飼い主を装ってはみたものの、リードもハーネスも何一つ持ってはいない。
手に持っているのは共に暮らす兄弟猫のフードと猫じゃらしが入ったビニール袋だ。
よくぞバレなかったなあ。
我慢ならず、ふきだしてしまった。
すると、三歩前を行くシニア犬がかすれた声でバフッと鳴いた。
いや、咳か?
「やっぱりキミも笑っちゃうよね。だって猫フードと猫じゃらしって。くくく」
さてさて。
キミと私、今からどこへ行くのかなあ。
見上げた夜空には天の川が静かに流れている。
私達の物語のページが今、ゆっくりとめくられた。
〈続く〉
あなた様とあなた様の大切な存在が
今も明日もLucky Lifeを送れますように
富山桃吉